●アジアカップ日本対ウズベキスタンを見て思い出した事
おはようございます。経営ドクターの島村信仁です。
昨晩、サッカーアジアカップ で日本対ウズベキスタン戦が行われました。
ウズベキスタンに前半先制されたものの後半逆転して2-1で見事勝利を挙げ3連勝で1位通過を果たしました。
日本対ウズベキスタンのサッカーを見ていて思い出した話があります。
サッカーの対戦相手だったウズベキスタンに日本人が建てた「ナボイ劇場」という建物があることをご存知でしょうか?
ウズベキスタンは中央アジアに位置する小さな国です。とは言っても日本よりは少し大きい国になりますが。
そのウズベキスタンの首都であるナシケント市にあるのがナボイ劇場で、今でも多くの市民に親しまれている建物です。
大東亜戦争が終わった時に、満州で捕虜となった日本兵を旧ソ連(今のロシア)は、シベリアなどで森林伐採や鉄道建設のために強制労働させた歴史があります。
シベリア抑留の始まりです。
強制労働の1つとして戦争で工事が途中で中断していたナボイ劇場を完成させるように命じました。
ソ連は革命30周年に当たる1947年11月7日までに壮大なオペラハウスを建設する計画を立てており、それを成し遂げるために工事を命じたのは457人の部隊であり24歳という若い立場にありながら永田大尉が隊長として指揮する立場になりました。
永田隊長が考えたのは隊員たち全員を無事に日本へ帰国させて家族と再会させること。そして、劇場を捕虜が作った手抜きの仕事ではなく、日本人は凄いと尊敬されるような建物にしようと考えたのです。
捕虜としての強制労働は苦しいもので、ノルマを守らないものは満足な食事を与えられず、お風呂にも入れないような酷い環境でのものだったそうです。
そんな中でも、一生懸命に劇場を建てる日本人の姿を見て、地元のウズベキスタンの人々も次第に敬意を表すようになり、そっと食事を差し入れすることもありました。
子供たちがパンを差し入れしてくれた時には、何かお礼をしようと木で作ったおもちゃをお礼の意味で同じ場所に置いてあったそうです。
日本人みんなの和の精神での協力もあり、ナボイ劇場は2年で完成させて殆どの日本人が無事に帰国することができました。
ナボイ劇場にまつわるこんな話があります。
それから19年後の1966年4月26日、タシケント市は直下型の大地震に襲われた。ソーヤは「みんな外に出て」と子供たちに向かって叫んだ。
子供たちの手を掴んで外に飛び出しながら「近くのナボイ劇場が建っている公園に行って。噴水の周りに集まりましょう」と叫んだ。あちこちの家が崩れている。
ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟に思い出したのは、20年前にまだ少女だった頃、ナボイ劇場の建設に従事していた日本人から「大きな地震が起こったら家が倒れて逃げられなくなる。広場などに避難した方が良い」と教わったことを思い出したからだった。
と同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人たちが建てたナボイ劇場も壊れてしまったのだろうか。。。と気になっていた。多くの人々がナボイ公園に向かっていた。
しかし、公園に着いた人々は皆息を飲むほど驚いた。ナボイ劇場だけは何事もなかったかのように凛と立っていたのである。
ナボイ劇場は地上3階建。地下1階。1,400席を備えた壮麗なレンガ造りの建物で、モスクワ、レニングラード、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場の1つでした。
大地震で政府系の建物約240。工場約250。約80,000の家が崩壊し、タシケント市の街がほぼ全壊した中、ナボイ劇場だけは無傷だったのである。
「外壁も崩れていないし、レンガ建てなのによく壊れないで美しくそびえ立っている」
ナボイ劇場が凛として立ち続けている姿を見て涙ぐむ人もいた。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちた。
子供たちに「ね。凄いでしょ。あの劇場作るのをお母さんも手伝ったの。でも、本当に一生懸命に作ってくれたのは日本人なのよ」と教えたのである。
大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は瞬く間にウズベキスタン国内だけではなく、隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどの中央アジア各国を駆け巡った。
日本人は優秀で真面目な民族だという日本人伝説が広がり、1991年のソ連崩壊で各国が独立した時に国家目標として「日本人を見習う」とする国も出てきたほどなのだ。
ナボイ劇場には日本人の捕虜が建てたと建設当時は書かれた石碑がありましたが、新しい大統領は「彼らは恩人だ。間違っても捕虜と書くな」と命令して「日本国民がナボイ劇場の建設に参加し、完成に貢献した」と書き直させたそうである。
この話を思い出すたびに今の日本人はどうなんだろう?と考えさせられる。
苦しいことや辛いことを避けて楽な方向に流れていないか?と。
お酒に飲まれる人。グルメぶって行列に並ぶ人。暖衣飽食に酔いしれてサウナやエステ、ライザップやカザーブのようなダイエットにお金を出す。
おかしくないだろうか?昔はそんな会社や施設はなかったのだから。
仕事や商いばかりでなく、家族や子育て、人間関係でも辛いことはある。生活して生きていれば当然ある。
そんな時に目の前のことから逃げ出さないで、目の前にあることを一つ一つ真摯に向き合って成し遂げていくことをナボイ劇場を建設した日本人から私は時代を超えて教わっている気がします。
逃げ出さないで少しづつでいいから進みましょう。一気に状況は変わらなくても昨日より一歩進めば良いのですから。
次回の心学商売繁盛塾は1月28日(月)に読書会を行います。みんなで本を読んでワイワイ語り合いましょう。
おはようございます。経営ドクターの島村信仁です。
昨晩、サッカーアジアカップ で日本対ウズベキスタン戦が行われました。
ウズベキスタンに前半先制されたものの後半逆転して2-1で見事勝利を挙げ3連勝で1位通過を果たしました。
日本対ウズベキスタンのサッカーを見ていて思い出した話があります。
サッカーの対戦相手だったウズベキスタンに日本人が建てた「ナボイ劇場」という建物があることをご存知でしょうか?
ウズベキスタンは中央アジアに位置する小さな国です。とは言っても日本よりは少し大きい国になりますが。
そのウズベキスタンの首都であるナシケント市にあるのがナボイ劇場で、今でも多くの市民に親しまれている建物です。
大東亜戦争が終わった時に、満州で捕虜となった日本兵を旧ソ連(今のロシア)は、シベリアなどで森林伐採や鉄道建設のために強制労働させた歴史があります。
シベリア抑留の始まりです。
強制労働の1つとして戦争で工事が途中で中断していたナボイ劇場を完成させるように命じました。
ソ連は革命30周年に当たる1947年11月7日までに壮大なオペラハウスを建設する計画を立てており、それを成し遂げるために工事を命じたのは457人の部隊であり24歳という若い立場にありながら永田大尉が隊長として指揮する立場になりました。
永田隊長が考えたのは隊員たち全員を無事に日本へ帰国させて家族と再会させること。そして、劇場を捕虜が作った手抜きの仕事ではなく、日本人は凄いと尊敬されるような建物にしようと考えたのです。
捕虜としての強制労働は苦しいもので、ノルマを守らないものは満足な食事を与えられず、お風呂にも入れないような酷い環境でのものだったそうです。
そんな中でも、一生懸命に劇場を建てる日本人の姿を見て、地元のウズベキスタンの人々も次第に敬意を表すようになり、そっと食事を差し入れすることもありました。
子供たちがパンを差し入れしてくれた時には、何かお礼をしようと木で作ったおもちゃをお礼の意味で同じ場所に置いてあったそうです。
日本人みんなの和の精神での協力もあり、ナボイ劇場は2年で完成させて殆どの日本人が無事に帰国することができました。
ナボイ劇場にまつわるこんな話があります。
それから19年後の1966年4月26日、タシケント市は直下型の大地震に襲われた。ソーヤは「みんな外に出て」と子供たちに向かって叫んだ。
子供たちの手を掴んで外に飛び出しながら「近くのナボイ劇場が建っている公園に行って。噴水の周りに集まりましょう」と叫んだ。あちこちの家が崩れている。
ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟に思い出したのは、20年前にまだ少女だった頃、ナボイ劇場の建設に従事していた日本人から「大きな地震が起こったら家が倒れて逃げられなくなる。広場などに避難した方が良い」と教わったことを思い出したからだった。
と同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人たちが建てたナボイ劇場も壊れてしまったのだろうか。。。と気になっていた。多くの人々がナボイ公園に向かっていた。
しかし、公園に着いた人々は皆息を飲むほど驚いた。ナボイ劇場だけは何事もなかったかのように凛と立っていたのである。
ナボイ劇場は地上3階建。地下1階。1,400席を備えた壮麗なレンガ造りの建物で、モスクワ、レニングラード、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場の1つでした。
大地震で政府系の建物約240。工場約250。約80,000の家が崩壊し、タシケント市の街がほぼ全壊した中、ナボイ劇場だけは無傷だったのである。
「外壁も崩れていないし、レンガ建てなのによく壊れないで美しくそびえ立っている」
ナボイ劇場が凛として立ち続けている姿を見て涙ぐむ人もいた。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちた。
子供たちに「ね。凄いでしょ。あの劇場作るのをお母さんも手伝ったの。でも、本当に一生懸命に作ってくれたのは日本人なのよ」と教えたのである。
大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は瞬く間にウズベキスタン国内だけではなく、隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどの中央アジア各国を駆け巡った。
日本人は優秀で真面目な民族だという日本人伝説が広がり、1991年のソ連崩壊で各国が独立した時に国家目標として「日本人を見習う」とする国も出てきたほどなのだ。
ナボイ劇場には日本人の捕虜が建てたと建設当時は書かれた石碑がありましたが、新しい大統領は「彼らは恩人だ。間違っても捕虜と書くな」と命令して「日本国民がナボイ劇場の建設に参加し、完成に貢献した」と書き直させたそうである。
この話を思い出すたびに今の日本人はどうなんだろう?と考えさせられる。
苦しいことや辛いことを避けて楽な方向に流れていないか?と。
お酒に飲まれる人。グルメぶって行列に並ぶ人。暖衣飽食に酔いしれてサウナやエステ、ライザップやカザーブのようなダイエットにお金を出す。
おかしくないだろうか?昔はそんな会社や施設はなかったのだから。
仕事や商いばかりでなく、家族や子育て、人間関係でも辛いことはある。生活して生きていれば当然ある。
そんな時に目の前のことから逃げ出さないで、目の前にあることを一つ一つ真摯に向き合って成し遂げていくことをナボイ劇場を建設した日本人から私は時代を超えて教わっている気がします。
逃げ出さないで少しづつでいいから進みましょう。一気に状況は変わらなくても昨日より一歩進めば良いのですから。
次回の心学商売繁盛塾は1月28日(月)に読書会を行います。みんなで本を読んでワイワイ語り合いましょう。
コメント
コメント一覧 (2)
感動いたしました。
素直な気持で良い日本にしていこうと
思うことができました。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。少しでもお役に立てたなら嬉しい限りです。先人に学ぶことは多いですね。