● 本日が昭和の日であることの意味を理会する




こんにちは。島村信仁です。




本日からゴールデンウィークが始まった世間の皆様は多そうですね。




そんな黄金週間の初日の今日は何の祝日でどういう意味があるかご存知でしょうか?




今日は昭和の日です。


昭和の日



2006年までは「みどりの日」でしたが、2007年の改正祝日法で「昭和の日」になりました。


昭和の日って何なんでしょう?


今は平成だから昭和を懐かしむために制定したんでしょうか?


平成31年1月1日から元号が変わるから、昭和を忘れないように制定したのでしょうか?


昭和の日である4月29日は、昭和天皇の誕生日です。


昭和天皇



戦争が終わった8月15日から1ヶ月以上が経った昭和20年9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向けて皇居を出発しました。

シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇は、非常に厳しい表情でおられたそうです。

午前10時、車はマッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐりました。

玄関にはマッカーサーの姿はなく、出迎えたのは2人の副官だけだったそうです。

マッカーサーはこの時、昭和天皇を出迎えも見送りもしないと決めていたそうです。

昭和天皇は、同行したくない大臣などと別れ、一人の通訳だけを連れて、マッカーサーのもとを訪れました。

10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の奥へと案内しました。

アメリカのバージニア州にあるマッカーサー記念館には、会見時の写真が3枚残されています。

1枚はマッカーサーが目を閉じてしまっていたために不採用に。

もう1枚は、昭和天皇の口が開いていたために不採用に。

最後に残った1枚が採用になりました。

昭和天皇 マッカーサー

写真撮影の後に会談が始まりました。


「ついに天皇をつかまえるべき時が来た」

事前に連絡を受けていたマッカーサーは、兵の待機を命じていました。

すでにこの時点で、陛下をどのようにするのか、GHQの中でも議論が交わされていました。
方針は大きく分けて3つありました。

1.東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
2.日本共産党をおだてあげ、人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
3.支那に亡命させて秘密裏に殺害する。

いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。

マッカーサーは、陛下が命乞いに来られるのだと思いました。

ですから彼は、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしませんでした。

マッカーサー


これがマドロスパイプをくわえたマッカーサーです。


当時のアメリカは、トウモロコシが主たる産物で、そのトウモロコシで出来たマドロスパイプはアメリカを象徴している姿でもありました。


このパイプをくわえていたのには、アメリカのトウモロコシが日本を制圧したことの象徴でもあり、俺たちが上だという先勝を意味するポーズでもありました。


椅子に座って、背もたれに体を預けて、足を組みながらこのマドロスパイプをくわえている。


どう見ても誰が見ても昭和天皇を見下しており、玄関まで出迎えなかったのもこの態度からもわかることでしょう。


そして、このマッカーサーと昭和天皇の会談の内容は、日米両国の政府は未だに何も発表していません。


では、なぜこの会談の内容が公に知れ渡ることになったのか?は陛下が語ったわけではなく、マッカーサーが回想録の中に記してくれていたから、私たちはこれから先の内容を知ることが出来るのです。


そうでなければ、昭和天皇がどのような思いで、マッカーサーに何を語ったのか?知ることは出来なかったのです。


それを踏まえたうえで先を読み進めて頂けると違ってくると思います。


マッカーサーに対して、陛下は直立不動の姿勢を取り、挨拶をした後にこのようにおっしゃったそうです。




「日本国天皇はこの私であります。 戦争に関する一切の責任はこの私にあります。

私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。

絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」

弱ったのは通訳でした。

その通り訳していいものなのかどうなのか?

ですが、陛下は続けられました。
                                  
「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、
まさに深憂に耐えんものがあります。

温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」





この言葉にマッカーサーはとても驚きました。昭和天皇が命乞いに来るだろうと考えていたからです。


自らの命と引き換えに自国民を救おうとした国王など世界の歴史上でほとんど皆無と言っていいほど例がなかったからです。


事実、第一次世界大戦でドイツが敗れた時に当時のカイゼル皇帝はこのように言っていたのをマッカーサーは聞いていたからです。


「戦争は国民が勝手にやっただけのこと。自分には責任がない。従って自分の命だけは助けて欲しい」と。



昭和天皇の言葉を聞き、マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。

そして椅子から立ち上がりました。

そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにして座らせました。

部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとりました。

「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!」

マッカーサーは、二度、この言葉を繰り返したそうです。

そして、「私も、日本人に生まれたかったです。 陛下、ご不自由でございましょう。 私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

陛下も、立ち上がられました。

そして涙をポロポロと流しながら、 「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。




目の前にいる昭和天皇を日本で最上の紳士と感じ取ったマッカーサー。


35分の会談が終わった後に、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていました。


マッカーサーは予定を変えてまで、昭和天皇を玄関まで行き、マッカーサー自身の手で車の扉を開け、お見送りしたのです。


これはマッカーサーが出来る昭和天皇に対しての最大の好意の表れでした。


そして、見送ってから急いで会談を登ったマッカーサーは、当初天皇を殺す予定だった方針を180度変えます。


天皇を殺したら日本国民全員が立ち上がり、統制はとても出来るものではなくなる。


アメリカの兵士の命も多く落とすことになるということに気づいたのです。


1945年の11月にアメリカ政府はマッカーサーに対して、昭和天皇の戦争責任を調査するように要請しましたが、マッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と答えています。


当時のソ連やアメリカ政府は天皇を処刑すべきだという意見でもちきりでしたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーはこれらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立つことになりました。


同じ年の12月に昭和天皇は松村農林仁大臣を皇居に呼ばれ、こう話をしました。


「戦争で苦しみを受けた国民にこのうえ餓死者を出すことは自分には耐えがたい。

日本政府が要請してもアメリカは食糧を与えてくれないという。

だが、考えれば当方に代償として提供すべきものが何もないのだから致し方あるまい。

それで聞けば皇室の御物の中には、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これをアメリカに渡して食料に代えて、国民が飢餓を1日でもしのぐようにしたい」


これを聞いたマッカーサーは、「それは皇室の人気取りでそのようなものは必要ない。私がかけ合い必ず本国から食糧を輸入するようにしよう」と言い、日本の危機を救ってくれたのである。


後に戦争について語ることはあった昭和天皇ですが、マッカーサーとの会談内容だけは「マッカーサー司令官とこれはどこにも誰にも言わない約束を交わした。男子の一言の如きは守らなければならない」と一言も生涯語ることはなかったのです。


昭和天皇は、自分が行ったことについて自慢することは一度もなく、終生にわたって名誉を求めたこともない自分に無欲な方でした。



昭和天皇がいらっしゃなければ、私たち日本人の今は無いと言っても差し支えないのではないでしょうか?


その昭和天皇の誕生日が今日なんです。


でも、こういう素晴らしい話は学校では教えられない。絶対に。


日教組が日本はダメな国だという自虐史観を徹底的に植え付けていますから、こういういい話は一切自分で勉強しないことには知る由もないのです。


今日は、日本を命がけで救ってくれた昭和天皇の誕生日です。


長いブログになりましたが、ゴールデンウィーク初日にそのことを噛みしめて感謝して1日を過ごしたいものです。







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